のぼかんホームページ
- tokainobokan
- 2022年1月24日
- 読了時間: 6分
更新日:2022年2月1日
のぼり先生の「のぼりです」では、ものごとの考え方や捉え方に新たなる刺激を下さいますよ。
今月のテーマは『新たなる始まり』です!
「文字の再発見コーナー」では、のぼかん講師の皆さんが、自身が考えるテーマについて分析しています。
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のぼりです
「新たなる始まり」
今年『のぼかん』は22歳になり私も70歳の古希を迎えます。
周りには先輩方がたくさんおられますから、お叱りを受けぬよう自分の感慨に籠もってみますと、『長く生きたな』と思います。
昔も今も振り返る言葉はうまく繋げませんが、生きることの不思議さがここ最近の興味にもなっています。
不思議と言ってもごく普通といえばそうなのですが、若い時は自らの心の内が抑えの利かぬこともあったのに対し、敢えて抑えぬままに何があっても、悠然というより平然と成り行きを見続ける時もあり、その実感激したり感動に胸が震えることも変わらず有るつもりだが、よくよく考えるとその事が尾を引いては、長くその事に浸ると言うことはあまりなくなった気もします。
するとその余ったところの心境は何に変わっているのかと考えると、無というかただ淡々とその事を思い続けたり、見続けることが増えた気がするという事でしょうか。
青年の頃「恍惚の人」という言葉が流行った記憶がある。有吉佐和子氏の小説名でその後映画かテレビドラマでもその題名としてあり、流行語となるほど社会においても認識されたという事です。
「恍惚」というと子どもには立ち入れぬ、大人の専売特許のような世界の言葉が「恍惚の人」とする事により、いっぺんにその意味の枠が広がり、広がる事によりそれまでのエロスの感覚には用いられなくなった気がします。
つまり呆けては惚けてる人、それに近い人の事を洒落か冷やかしか、あるいは最大の好意か「恍惚の人」として、その世界で静かにそしてさも誰も立ち入れぬ心境にある様を表す言葉として、大いにそして瞬く間に流行った気がします。
ボケてるというと悪意が先に来る感じがあり、自他に抵抗がある言葉が「恍惚の人」とある種の格上とする事で中和され、しかし実態としてその存在や状態は、人がやがて向かう可能性のある世界としての認識がオープンになったとも思えた。
この言葉が世に出た瞬間より、自身として身内としても、秘して恥ずかしい世界とあった認識が一歩も二歩も進展し、その実態を人の一生の可能性として皆の共有の事として位置づかせた。
まさに現在の認知症学の社会的認知の始まりだったと思っている。
と、まぁこんなあれこれを日々に思っては独りごちているから、特段ボーッとして見えるのは今に始まった訳ではないが、加齢と共する「見た目の変化」が重なっては、年々少しずつ「どうぞお元気で」と掛け声をいただく機会も増えた気がする。
まさか自分がこの年まで生きて来れて、こんな心境を続けられるなんて想像もして来なかったが、やはり思う事はその通りを経てみて初めてやはりそうか、と言えるのだなとこれまたうんうんと一人頷く。
ある人が先年、いかにしてそう落ち着いた生き方が出来るかと問うて来られた。
「落ち着いた様」を人に与えているつもりでは生きて来なかったが、若い頃も「落ち着いてる」とは何度か言われた事を思い出す。
だから、特別に見えても「性格なんでしょうね」としか答えられないが、問うた当人が求めているのは「落ち着ける風に見える手法」だという事はわかっていても、昔とそう変わらぬ自分の事は偽れない。
ただしこの歳になったのだから、それなりの時間の積み重ねにある「経験」は人並みとしてある。だがこの性格「個性」は子ども時分より変わらぬままに、時間という衣を纏いながら肉付けも多いにたっぷりとあり、この個性をずっと生きて来たと間違いなく言える。
環境は万人あって万通り。そこにその個性が有り育ち現在に至る。
兄弟姉妹として同じ環境に育ったとしても、ハナからその「個性」は一人一人違うのだから、環境に対する受け止め方、感じ方、表し方も皆異なるのだ。
そう双子ちゃんでも異なるのだから、世に生き方の「正論」なるものはないのだと、もう気づく時代、そうと認識して生き活動する時代となったという事だ。
ならば万人が万通りの動きをすれば、てんでバラバラ混乱するだけじゃないかと浅はかな人はすぐ心配し批判する。もっときちんと考えてみるといい。
一人一人は皆違うからこその、「人の日本の世界の目標や進むべき道」という事を『掲げる事の重要さ』に集約されて行くのだ。経済的成長のみを繁栄・向上の証とする事に終始した時代の行き詰まりは誰しも薄々感じているこの時代に、なんとかして昔に戻る事を現実的と考える人は実は誰も居ず、日々に新たな生き方という言葉の現実がもうそこまで来ているという事。
無論争わず競わずして、静かに成長というのはないから、それぞれの能力や活動の結集という世界に摩擦や軋轢が生じるのはいつの時代も当然としてあり、その中にスピードやその濃さを求める事はむしろ今より的確となり、その価値観に対する認識が大いに変化していくだろうと考える。
過去を学びきちんと理解を果たす事を勉学の絶対的な基本とし、そこから地球やその取り巻く環境の学びを経ながら未来や個々の将来を語り考える時代。
国をどうするか、その社会をどうするか、そして個々の尊重をいかに果たして行くか。
今個人的になんらかの壁や障害を覚え感じているなら、その先の自身の未来の理想や願望の中身を、徹底的に分析して整理して納得する事に尽きる。その事を時代という世界観にも当てはめ考えることこそ、今ある根拠のない楽観論に楽観出来ていない自分のひとまず立つ瀬を掴む事だと思います。
正義や正論も突き詰めると悪意や穴だらけの論になる。そんな例えを幾度も繰り返すほど人の時間は長くはないと思います。
不幸中の幸いとするとお叱りを受けるが今世界中にコロナウイルスの脅威があります。この機を実利に活かす世界も集団もありますが、せっかくならそんなコソコソチマチマした世界に汲々とするよりも、幼き子ども達の視線をしっかり感じて、どこから見ても一生懸命生きる大人としての姿を見せつけ導いていけるよう、未来を見据える学びをと推奨します。
そうと設定すればこの世界には多くの学問や知識があります。
そんな未来に向かう学びの第一章の担当者として自覚を大いとされ、更なる知識の追求を課される事を願って、講師の皆さんへの一年の始まりの励ましとします。
『のぼかん』は、一人一人の個性をきちんと理解し大事にしていこうとする学問です。
長じてその人の人生の可能性を伸ばし支える根拠とする事、その一助となるべく学問の提供者としての使命感に立ち、その研鑽と覚悟を大いに促し励まして新年の挨拶といたします。
『のぼかん精神』
文字の真実に迫り
名前の奥深き世界を語り
皆様おひとりおひとりの
人生の一助となって
社会や日本の国の
平和に貢献してまいります
上 海州




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